2015年12月23日水曜日

システムか?森か?それが問題だ。SUSANOOについて2015年末の雑感

少し唐突ですが、
人間がシステムの一機能として扱われることは、しばしば起こります。

主語を社会や国家といった概念にして、話し始めた途端、
私たちはそのシステムのなかで自らが期待される役割に応えるべき存在になっていく。
そんな風に感じています。

私たちはそのとらえどころのない対象に対して、
影響力をもつために、自らをシステムに内在化させなければなりません。

そうして、最初は自らの意志で、システムに影響していたつもりが、
いつのまにか、システムの要請に自らが、応えるべき存在として、
パーツのひとつとして関係することになってしまいます。

また、
システムそのものは意志をもたない。
かといって、合理的な判断を下すとも限らない。

だから、自分がどのシステム(組織や集団)に関係するか?
についての選択はそれなりに重要だったりするのです。


さて、ここからが本題ですが、
面白いことに、起業家という存在は自らがシステムを構築し、
やがてシステムのいち機能として役割を果たします。

そしてその道を進んでいくと、誰からも感謝されなくなったりする。
偽りなく「顧客のため、社会のため」に努力をしているのに、
顧客からも、組織の成員からも、「感謝」されない。

それでも彼らはその道を突き進む。

ビジネスでの話なら、まだ成功すれば、カネという分かりやすい報酬が手に入る。
しかし、社会起業という領域、課題解決を優先する起業家たちは
必ずしもそういった分かりやすい対価が得られるとは限りません。


そして、人間は必ずしも強い生き物ではないので、
気を抜くと、大衆に迎合したくなったり、社会的認知度が気になったりする。

これは起業家に限った話ではない。
システムのなかで責任ある立場を担う方々は、
多かれ少なかれ、みなそういうジレンマを抱えることになっていると思う。

「社会的な価値」を重視し、システム化すればするほど、
自らも「一機能」になっていき、「感謝」も「尊敬」も受け難い。

働き方(社会への関わり方)が多様化しているいま
収入面での報酬もないとあすれば、ますます現場や、
組織の成員、ステークホルダーに迎合したくもなると思う。

仮にそうなった場合、それは「志」と「役割」の間で、
決定的な自己矛盾に陥ることになる。

「やりたいこと」にもつながらないのに、
「やらなければいけないこと」だけが増えていってしまう感じだ。



ソーシャルスタートアップが、
インパクトを生み出すシステムを創るうえで、この壁を突破するためには、
1つはシステム内での責任ある立場を担う人々に対する、
リワード設定を格段に高くするということがあります。

しかし、ここには「価値の可視化」の難しさという壁が立ちはだかります。

面白いことに「価値の可視化」が難しい挑戦ほどステークホルダーから
「価値の可視化」を求められます。可視化しようとすればするほど、
ソーシャルスタートアップの組織の成員は、よりシステムのいち機能として、
自らを位置づける必要が出てきます。

そうすると、上述した自己矛盾に陥りやすくなるのです。


そこで、現状、もう1つ考えられるのが「システムを作らない」というアプローチです。
これはアメーバ型の組織論、あるいは運動や思想の展開にも近いのですが、
ひとまず、「目的をもった有機的な共同体を創る」と言い換えておきます。

それは、「生態系創り」といわれるアプローチでもあります。
ざっくりと、システムが工場建築ならば、生態系は森創りです。


この生態系づくり、つまり森を育むには、とても勇気が必要です。
有機的な繋がり、生態系は「目的」をもつにも関わらず、
その「成果」を安定供給することを約束はしません。

それは「予測」を放棄することでもあすり、「スピード」を放棄することでもあります。

同時にその森創りを行うひとにとって、現行の社会システム(特に資本主義)における
未来の「報酬」を約束することもないということです。


一方で、この森創りだからこそ、人は一機能になることはないともいえます。
森人はいつまでも「自らの意志」と「影響力」を持ち続けることができます。

ただし、森が大きく広がっていくと、個々が全体に与える影響は
相対的に小さくなっていきます。それは、その森を作った人であってもです。

このアプローチだからこそ、
システムの一機能として埋没することなく、目的に向かって歩くことができる。
つまり、「やりたいこと」と「やるべきこと」を直結させて歩むことができるのでは
ないかと考えています。

ただ、この道は大変勇気と覚悟のいる道でもあると思います。
これは森が大きく広がるまでは、自らは何も得るものはないし、
ただただ不安定なだけだからです。

それに、仮に自らが生み出した「ゆらぎ」であったとしても、
それが広まっていくには、全ての他者の選択と行動が反映されるため
「誰が」生み出したか?は全体にとって問題ではないし、名前もつきません。

これは、森の動植物にとって、「所有」という概念は存在しないことを
考えてみればわかると思います。

もう少し、別な角度から言い換えると、
森の動植物にとって「全体最適」は生きる目的ではありません。
そこでは、いま、目の前の人とどう関係するか?、だけが重要で、
いかなる役割を担う人であれ、それに集中していいのです。

つまり、生態系創りというアプローチは自らも含めた「その人らしさ」を全肯定しつつ、
結果として、「全体最適」に繋がる仕組み創りでもあるのです。

また、その森にとっては、「多様であること」自体が全体としての
「靭やかさ」つまり、生存確率を高めることにも繋がるのです。

この森において、私たちは誰もが特別な存在でなくなるのですが、
しかし、同時に誰もがなくてはならない存在にもなると考えています。

そういった森のような仕組みが創りだせれば、
ソーシャルスタートアップ起業家、またはその成員にとって
「やりたいこと」と「やるべきこと」が直結した状態を生み出せると考えています。


(一旦、抽象論ですみません。)

世界を旅して体験してきたことをふまえると、
こういった画一的なシステム偏重から→有機的なつながりへの変化に
価値を見出す、パラダイムシフトは既におこっています。

しかし、あくまでも辺境で盛んになっているもので、
まだまだ、こと日本においてはメインストリームとはいえません。

なので、こういった生態系創りのアプローチについては、
人によっては、全く理解されないこともあります。
それはある場所からみれば、無価値であり、敗北にすら見えることもあるようです。



そして、SUSANOOを進めてきた二年間を経て、
まさにいまこの岐路にたっているな~と思っています。

社会システムとして位置付ける道を選ぶのか、
はたまた予測不可能だけど、感謝と尊敬にあふれた有機的でカオスな森を耕すのか。

もちろん、どちらの道も険しい。

とくに森をつくる、生態系をつくるというのは
神の領域であり、人間がそれに挑むならば、論理と感性を兼ね備えた、
芸術的なアプローチしかないですし、それは能力以上に、圧倒的な人間力を要求します。

さらに、私達自身が社会システムのど真ん中にいて、
そのシステムに依存しているからこそ、たった二年間で
ここまでこれたともいえます。

なので、私個人としては、SUSANOOプロジェクトと通じて、
社会システムの恩恵を存分にうけながら、なお、そのど真ん中に
異質で、有機的でカオスな「何か」を創造することに挑戦をしてみたいと思っています。


これは、中途半端に終われば、何も残らない道です。
やるからには、その森が豊か広がって自律的に成長拡大する状態まで、
多様で「靭やかさ」をもったものにしたい。そんな風に思うのです。



幸いなことに、私の周りには、いまSUSANOOをはじめ、
ETIC.を通じて出逢う人々の中に、そういう困難な道を歩もうとしている、
挑戦者が数多くいます。

なので、まずは、そういう荒ぶった挑戦者の皆さんに対して、
自らが人一倍「感謝」と「尊敬」を示していきたいと考えています。